自分は何を面白くないと思うのか 

私はお笑いが好きである。

漫才も見るし、ギャグ漫画も読む。最近ではAIに漫才まで作らせている。

そうやっていろいろ見ていると、当然ながら面白いものと面白くないものがある。

では、自分は何を面白くないと思っているのだろうか。

好きな笑いについて考えるより、嫌いな笑いについて考えた方が、自分の好みが分かるのではないか。

そんなことを考えた。

下ネタが嫌いなわけではなかった

私は以前、下ネタがそれほど好きではないと思っていた。

でも、よく考えるとそうでもない。

面白い下ネタなら普通に好きである。

嫌なのは、

「下ネタを言っておけば面白いだろう」

という感じの笑いだった。

性的な単語を突然言う。それだけで笑わせようとする。

別に性的な単語そのものが面白いわけではない。

状況があったり、言葉遊びになっていたり、そこから妙な論理が展開されたりするなら、下ネタでも面白い。

実際、AIに私の好みに合わせて下ネタ漫才を作らせてみた。

設定は、

「会社で下ネタが事前申請制になった」

というものだった。

下ネタを言うには申請書が必要で、軽度なら課長決裁、中度なら部長決裁、重度なら役員会にかけられる。

重度になると図が要る。

何をそんなに真面目に審査しているのだろうか。

私はこれがかなり好きだった。

つまり、下ネタだから面白いのではない。

下ネタを異常に真面目な会社制度で管理していることが面白い。

下ネタは笑いそのものではなく、笑いを作るための材料になっている。

どうやら私は、そこをかなり気にしているらしい。

内輪ネタも苦手である

内輪ネタもあまり好きではない。

ただし、これは少し条件がある。

その場にいる全員が知っている話なら別にいい。

「あのときの田中みたいだな」

と言って全員が笑えるなら、それは非常に効率のいい笑いだと思う。

共有している記憶がある分、かなりの下駄を履かせられる。

問題は、その田中を知らない人が一人でもいる場合である。

五人が笑っていて、一人だけ何の話か分からない。

これはかなり嫌である。

笑いを理解するために必要な情報を、その人だけ持っていないからだ。

ただし、マニアックな話そのものが嫌いなわけでもない。

たとえば、

「これは1997年の○○鉄道のダイヤ改正と同じだよ」

「誰もわかんねーよ」

なら成立する。

観客は○○鉄道について知らなくてもいい。

むしろ、誰にも伝わらないほどマニアックな例を出したこと自体がボケになっている。

知らない人を笑いから排除するのではなく、「知らない」という状態まで笑いに利用している。

この違いは結構大きいと思う。

大喜利ではあまり笑わない

そして、もう一つある。

私は大喜利であまり笑わない。

面白くない回答しか見ていないのかと思って、ネットで評価の高い回答なども見てみた。

確かに、

「うまいな」

とは思う。

発想が意外だったり、お題への返しとしてきれいだったりする。

でも、声を出して笑う感じではない。

試しに自分でも考えてみた。

ロボットにしては人間すぎる感情

というお題に対して、

ハンカチを持ち歩いてる

という回答を思いついた。

自分ではそこそこ気に入っている。

ロボットなのに、泣く可能性を考えてハンカチを持ち歩いている。

なかなか人間臭い。

でも、自分で考えた回答なのに笑いはしない。

「結構うまいこと思いついたな」

で終わる。

ここで、もしかすると私にとって、

「うまい」と「笑える」は別なのではないか

と思った。

大喜利は一回で完成してしまう

私は漫才のボケとツッコミの構造が好きである。

そこで最初は、

「大喜利にはツッコミがないから笑わないのではないか」

と考えた。

ただ、もう少し考えると、それだけでもなさそうだった。

大喜利は、お題の時点ですでに少しおかしい。

そこへ回答を乗せる。

お題 → 回答

これで小さな笑いが完成する。

だから良い大喜利回答ほど、それ以上何かを足す余地が少ない。

実際、大喜利の回答にツッコミを足そうとしてみたが、難しかった。

ツッコミを入れても、すでに回答から分かることを説明しているだけになりやすい。

一方、漫才は違う。

ボケ → ツッコミ → ボケ → ツッコミ

と続いていく。

一つの変な発言を、もう一人が拾う。

そのツッコミによって別の変な状況が生まれる。

さらにボケが返す。

最初の小さなズレが、会話によってどんどん大きくなっていく。

どうやら私は、この過程がかなり好きらしい。

一発の発想より、変な論理が育っていく方が好き

ここまで考えると、下ネタ、内輪ネタ、大喜利という一見バラバラな話に、少し共通点が見えてきた。

私は、

題材そのものに笑わせる仕事をさせる笑い

があまり好きではないのかもしれない。

下ネタだから面白い。

内輪で知っている人だから面白い。

変な回答だから面白い。

それだけでは、あまり笑わない。

一方で、一つの変な前提が置かれて、そこから妙に筋の通った展開が続いていくものは好きである。

「会社で下ネタが申請制になった」

だけなら一発のボケである。

でも、

申請書がある。

審査基準がある。

軽度・中度・重度がある。

重度は役員会にかけられる。

図も必要になる。

緊急時には事後申請が認められる。

二人で下ネタを完成させると共同発言になる。

責任は按分される。

最後にはツッコミまで審査対象になる。

こうやって、最初の馬鹿な設定から妙に論理的に世界が広がっていく。

私はこういうものに弱いらしい。

笑いを分析すると笑えなくなるのか

こうして自分の嫌いな笑いを考えていたら、いつの間にか、

「下ネタにおける直接的表現はどの程度まで許容されるのか」

「大喜利にツッコミを追加する余地はあるのか」

「内輪ネタとマニアックネタの違いは何なのか」

などということをAIと大真面目に議論していた。

以前、私は笑いを客観的に研究する人たちが出てくる小説を書いた。

タイトルは『九十九・八二点』。

国家間の紛争を漫才で解決する世界で、研究者たちが笑いを数値化しようとする話である。

そのときは馬鹿馬鹿しい話として書いた。

気がついたら、自分でも似たようなことをやっていた。

まだ笑いを数値化していないだけマシなのかもしれない。

今のところ。