別に 

朝、目が覚めたのは九時半だった。

予定はなかった。

端末を見ると、食料の配送が十一時から十三時の間に来ることになっていた。別に受け取る必要はないので、玄関前に置いてもらう設定にした。

今月の生活保障枠はかなり余っていた。

食料も日用品も、普通に暮らしている限り使い切ることはあまりない。

天気は晴れ。

気温二十二度。

僕は散歩に出た。

公園では男が走っていた。

百メートルほどの直線を走って、戻って、また走る。

ベンチに座ってしばらく見ていると、男は十二本目を走り終えたところで芝生に倒れた。

「大丈夫ですか」

「大丈夫」

息を切らしながら腕の端末を見る。

「十四秒八二。遅いな」

「大会か何かあるんですか」

「来月」

男は起き上がった。

「東地区三十五歳以上百メートル」

「へえ」

「去年十七位だった」

「結構すごいですね」

「参加者十八人だけど」

「そうですか」

「今年は十六位狙ってる」

男は立ち上がった。

「十六位と十七位って何か違うんですか」

「一個上だろ」

「まあ」

男はスタート地点へ戻っていった。

僕も歩き始めた。

昼前、喫茶店に入った。

隣の席の女がAIと話していた。

イヤホンはしていないので、会話が聞こえる。

「でも、冷蔵庫を開けた時点では、何かを取り出そうとしていたと思うんだよ」

『その可能性は高いでしょう。ただし、冷蔵庫を開ける行為そのものが記憶検索のきっかけになっている可能性もあります』

「つまり?」

『開ける前には目的を忘れていて、開けることで思い出そうとしている、ということです』

「でも何も取らずに閉めるよね」

『思い出せなかったのでしょう』

「じゃあ、冷蔵庫を閉めて三秒後にもう一回開けるのは?」

『再試行ではないでしょうか』

女は腕を組んだ。

「それだと一回目の失敗から何も学んでないよね」

『そうとも言えます』

「面白いな」

僕はコーヒーを飲んだ。

十分ほどしても、まだ冷蔵庫について話していた。

気になって声をかけた。

「何を調べてるんですか」

「別に調べてないですよ」

「研究とかじゃなくて?」

「違います」

「じゃあ、何のために?」

女は少し考えた。

「気になったから」

「冷蔵庫が?」

「今日は冷蔵庫ですね」

「昨日は?」

「『あと五分だけ寝る』の五分は、なぜほぼ五分じゃないのか」

「結論出ました?」

「出てないです」

「今日のは出そうですか」

「たぶん出ないです」

そう言って、またAIとの会話に戻った。

「じゃあ、冷蔵庫じゃなくて戸棚でも同じことをする?」

『比較対象として有効だと思います』

話はまだ長くなりそうだった。

昼飯を食べようと思って歩いていると、小さな店があった。

入口に、

当店の料理はすべて人間が手作りしています

と書いてある。

珍しいので入った。

カウンターだけの店だった。

「ラーメン一つ」

「味は?」

「おすすめで」

店主が少し困った顔をした。

「おすすめはないんですよ」

「じゃあ普通ので」

「普通もないんです」

仕方がないので醤油にした。

十五分ほど待った。

今どきにしてはかなり長い。

出てきたラーメンを食べた。

悪くない。

でも、家の調理機が作るラーメンの方がうまかった。

「どう?」

店主が聞いた。

「普通においしいです」

「機械のと比べて?」

少し迷った。

「機械の方がおいしいです」

「やっぱり?」

店主は嬉しそうに厨房へ戻った。

「昨日よりは?」

常連らしい客が聞いた。

「昨日よりはうまい」

「よし」

「でも機械には?」

「全然」

「まだ遠いな」

二人とも楽しそうだった。

午後、公園へ戻った。

朝の男がまだ走っていた。

今度は声をかけなかった。

少し歩くと、知り合いの吉岡に会った。

「久しぶり」

「久しぶり」

「今から何するの?」

「予定ある」

吉岡は端末を見せた。

十四時三十分、読書。

十五時十五分、筋力トレーニング。

十六時、近代文学。

十六時四十五分、風景画。

十八時、友人交流。

十九時、夕食。

二十時、自由時間。

「忙しいな」

「今日は軽い方だよ」

「仕事でも始めた?」

「まさか」

吉岡は笑った。

「昨日の生活評価が九十一・二だったから、今日は九十三狙ってる」

「何点満点?」

「百」

「九十一ならいいじゃん」

「先週九十四・六出してるから」

端末が鳴った。

吉岡が見る。

「あ、まずい」

「何?」

「雑談、三分オーバー」

「友人交流に入れれば?」

吉岡は一瞬考えた。

「それだ」

端末を操作する。

「九十二・一まで戻った」

「よかったね」

「じゃあまた」

吉岡は早足で去っていった。

そのあと、見慣れない建物の前を通った。

大勢の人が出てくるところだった。

全員、似たような服装をしている。

ジャケットを着ている人も多い。

今では珍しい光景だった。

入口には、

活動法人 東央交易

と書かれていた。

会社だった。

僕はしばらく眺めた。

興味が湧いて、中から出てきた男に聞いた。

「ここ、何の会社ですか」

「総合商社です」

「商社」

「はい」

「何を売ってるんですか」

「主に住宅設備ですね。今期は給湯器に力を入れてます」

給湯器なら生活保障の設備供給で普通に手に入る。

「売れるんですか」

男は笑った。

「売れませんよ」

「じゃあ、何をしてるんですか」

「売ったことにするんです」

「誰に?」

「取引先に」

「取引先は?」

「だいたい同じような会社です」

よく分からなかった。

男が説明してくれた。

参加者は現在二百三十人。

営業部、経理部、人事部、総務部、商品企画部がある。

社長もいる。

全員無給。

扱っている商品は架空。

売上も架空。

利益も架空。

ただし営業成績だけはかなり真剣に競っているらしい。

「じゃあ、この建物は?」

「借りてます」

「何のために?」

「会社だから」

「家でやればいいのでは?」

「それじゃ会社じゃないでしょう」

それはそうなのかもしれない。

男は営業二課だった。

今期の目標は架空の給湯器を七千八百台売ること。

現在、達成率六十三パーセント。

営業一課に負けているらしい。

「給料は?」

「出ませんよ」

「一円も?」

「一円も」

「大変ですね」

「かなり厳しいですね」

男の顔が曇った。

「しかも課長が数字しか見ない人で」

「趣味ですよね?」

「趣味です」

「課長も?」

「もちろん」

「嫌なら辞めればいいのでは?」

男は黙った。

「まあ、それはちょっと」

「なんで?」

「ここまでやってきたし」

そのとき後ろから別の男が来た。

「高橋」

「はい」

「明日の朝、営業会議になった」

高橋が露骨に嫌な顔をした。

「またですか」

「一課が七十二まで来た」

「うわ」

「部長、かなり機嫌悪い」

「最悪だ」

二人とも本当に嫌そうだった。

「じゃあ明日」

「お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

もう一人の男が去った。

高橋はため息をついた。

「明日行きたくないなあ」

「行かなければいいじゃないですか」

「いや、会議あるんで」

「でも趣味ですよね」

「そうなんですけどね」

高橋は駅の方へ歩いていった。

夕方になった。

また公園を通った。

朝からいたランナーはいなくなっていた。

代わりに、老人がベンチに座っていた。

見覚えがあった。

朝もいた人だ。

僕は少し離れたベンチに座った。

十分くらい何もしなかった。

老人も何もしなかった。

さらに十分経った。

「朝もいましたよね」

僕が言った。

「いたね」

「ずっとここに?」

「昼飯は食べに行ったよ」

「それ以外は?」

「ここにいた」

「何してたんですか」

老人は公園を見た。

「別に」

「暇じゃないですか」

「暇だね」

それで会話は終わった。

僕もしばらく座っていた。

子供が走っていた。

無人配送機が上空を通った。

犬が木の根元を嗅いでいた。

老人は途中で帰った。

僕はもう少しいた。

家に着いたのは十九時過ぎだった。

玄関前に朝の配送品が置いてあった。

冷蔵庫に食料を入れる。

夕飯は調理機に任せた。

ラーメン屋のことを思い出したので、ラーメンにした。

三分でできた。

昼よりうまかった。

食べていると、端末の生活記録AIが聞いた。

『本日はどのように過ごしましたか?』

朝からのことを思い返した。

十六位を目指して走っていた男。

冷蔵庫についてAIと話し続けていた女。

機械よりまずいラーメンを作っていた店主。

九十三点を目指して予定を埋めていた吉岡。

架空の給湯器が売れなくて困っていた高橋。

公園に座っていた老人。

『記録しますか?』

「いや、いい」

『では、本日は何をしていましたか?』

「別に」

少し考えた。

「歩いてた」