議論に勝ち負けは必要なのか

人と意見が対立したとき、「論破」という言葉が使われることがある。

ここでは「論破」を、相手の主張の間違いを指摘し、自分の主張が正しいことを明らかにすることとする。議論を一種の勝負として考えるなら、相手を論破した側が勝者ということになるのだろう。

しかし、そもそも議論とは相手に勝つためにするものなのだろうか。

私は、議論の目的はもっと別にあると考える。

議論は何のためにするのか

私が議論に期待することは、大きく二つある。

一つは、議論を通してよりよい結論を導くこと。

もう一つは、互いの主張が異なるのであれば、その違いがどこから生まれているのかを見つけることだ。

Aという意見とBという意見が対立しているとしても、最初に見えている対立が本当の原因とは限らない。

話を掘り下げていけば、そもそも前提としている事実が違うのかもしれない。物事の捉え方が違うのかもしれない。共通している考えもあるかもしれない。あるいは同じ事実を認識していても、何を重要と考えるかという価値観が違うのかもしれない。

「なぜ自分と相手は違う結論になるのか」

そこを一つずつ遡っていくことも、議論の役割なのではないかと思う。

論破する必要はあるのか

もちろん、相手の主張が明らかに間違っていると言えるものはある。

事実関係の誤りや論理的な矛盾であれば、どちらが正しいのかを判断できる場合もあるだろう。

しかし、思想や価値観が関係する問題でも同じことが言えるのだろうか。

同じ事実を認識していて、論理的にも特に矛盾していない。それでも、何を大切にするかが違えば結論が異なることはある。

そうなったとき、どちらかを間違いとする必要があるのだろうか。

それよりも、「ここまでは同じだけれど、ここから価値観が違うから結論が分かれている」と分かった方が、私にとっては意味がある。

相手の意見に納得する必要もないし、自分の考えを変える必要もない。ただ、なぜ違うのかは理解できる。

それだけでも議論をする価値はあると思う。

意見の違いの大元を探す

例えば、本人にとって危険な行為を、本人を保護するために禁止してよいかという問題を考えてみる。

一方は「本人が望んでいるのなら、他人に迷惑をかけない限り自由にさせるべきだ」と考えるかもしれない。

もう一方は「本人に重大な危険があるのなら、ある程度は社会が制限するべきだ」と考えるかもしれない。

この二人が「禁止すべきだ」「いや、自由にすべきだ」と個別の問題について延々と反論し合うこともできる。

具体的には、子供が赤信号を渡ろうとしているなら止めるべきだ、という主張は合意しやすいだろう。では、成人年齢は18歳に下がったが、飲酒や喫煙は20歳からのままとなっている。これも18歳にそろえ、本人の判断に任せてもいいのではないか。

このような問題になると、明確な答えを出すのは難しくなる。

しかし、話を掘り下げていけば、本人の自己決定をどこまで尊重するのか、本人を保護するためならどこまで他者が介入してよいのか、という考え方の違いが見えてくる。

さらに掘り下げれば、自由と安全のどちらをより重視するのか、という互いの価値観の分岐点に辿り着けるかもしれない。

「ここまでは同じように考えている。しかし、ここで考え方が分かれている」

そこまで分かれば、最終的な意見が一致しなくてもいいのではないかと思う。

議論の勝ち負けとは何か

それでも議論に勝ち負けをつけるとするなら、何をもって勝ちとするのだろう。

相手が反論できなくなったら勝ちなのか。

相手の意見を撤回させたら勝ちなのか。

私はそうではないと思っている。

議論をした結果、よりよい結論に辿り着いたのであれば、参加した全員の利益になる。

結論が一致しなくても、「なぜ自分たちの意見が違うのか」という大元を見つけ、互いにそれを理解できたのであれば、それも成果だろう。

その意味では、参加者全員の勝ちと言ってもいい。

逆に、お互いが自分の主張を繰り返し、相手を言い負かすことだけを考え、結局なぜ意見が違うのかも分からないまま終わったのであれば、一人が勝ってもう一人が負けたというより、参加者全員の負けなのではないだろうか。

議論は、必ずしも相手と同じ結論になるためのものではない。

まして、相手を言い負かすためのものでもない。

一致できるところと一致できないところを分け、その違いがどこから生まれているのかを知る。

私にとっては、それが議論をする大きな意味の一つなのだと考える。