「二十八秒地点の笑いは無効です」
国家漫才研究院・評価理論部の真鍋がそう言うと、会議室が静かになった。
正面のスクリーンには、昨日行われた第三次北方漁業水域裁定の映像が停止している。舞台上には二人の男。審査席には七人。審査員四番が口を開けて笑っていた。
「理由を」
評価委員長が言った。
「二十七秒八四から吸気が始まっています。ボケの発話完了は二十八秒〇九です。したがって、この笑いは当該ボケへの直接反応ではありません」
「何への反応だと?」
「審査員三番の笑い声への同調反応である可能性が高いです」
委員長は資料に目を落とした。
「領海換算すると?」
「十一・六平方キロメートルです」
「大きいな」
「大きいです」
審査員四番の笑いは無効となった。
十一・六平方キロメートルについては再審査が行われることになった。
国家間紛争の最終的解決手段としてAI生成漫才が採用されてから、三十二年が経っていた。
導入当初には反対もあったが、制度の成績は良好だった。
戦死者は激減した。軍事費も減った。都市が焼かれることもなくなった。
国境線が漫才で動くことを除けば、以前よりはるかに合理的な制度だった。
各国は軍縮を進めた。
同時に、漫才研究費を増やした。
現在、国家漫才研究院には二千四百人の研究者が勤務している。
予算規模は旧陸軍省の末期をすでに上回っていた。
二十年以上にわたる国家的研究にもかかわらず、漫才の面白さがどこから生じるのかについて、研究者の見解はいまだ一致していない。
最大勢力はボケ起源説だった。
笑いは正常な予測から逸脱した発言によって発生し、ツッコミはそれを補助するにすぎないとする。
これに対するのがツッコミ完成説である。
ボケだけでは単なる異常発言であり、ツッコミによって異常性が適切に切り出されたとき、初めて笑いとして完成すると考える。
両者を古典的な二分法として批判する研究者は、相互作用説を支持した。
重要なのはボケとツッコミのどちらかではなく、ボケによって形成された認知状態がツッコミによって変化するときの落差である、と彼らは主張した。
もちろん、それぞれの内部も統一されていない。
ボケ起源説には、正常な予測からの逸脱量そのものを重視する逸脱量仮説、異常な前提を置きながら内部では論理的一貫性を維持することを重視する異常論理整合説、新しい異常を次々と追加するより一つの異常な前提を掘り下げる方が笑いを増幅できるとする設定深度説が存在した。
ツッコミ完成説には、ボケに含まれる論理的欠陥のうち最も重大なものを正確に指摘すべきだとする論理欠陥捕捉説、ボケの異常性を別領域の概念に置き換えて表現することを重視する概念転写説、ツッコミを理解するまでの時間が一定範囲を超えると笑いが急速に減衰するとする最小理解遅延説があった。
近年では、単純な意外性ではなく「理解可能な範囲内での予測違反」が重要だとする可解逸脱説も支持を伸ばしている。
さらに、序盤で設定された異常な前提が後半でも維持・発展されているかを重視する異常前提保存説も存在した。
国際漫才学会は前年、世界の漫才理論を十四の主要学派と三十七の準主要学派に分類した。
分類そのものに異議を唱える論文が、翌月までに八十二本発表された。
「だから私は、プリン事例をツッコミ完成説の根拠として使用すること自体に反対なんです」
評価理論部の定例会議で、山岡教授が言った。
スクリーンには十二年前の漫才が表示されていた。
ボケが、コンビニに二個だけ残ったプリンについて話している。
『だから金曜の十八時三十分に行けば、二個ある可能性が高い』
そこで映像が止められた。
「この時点で異常性は十分に成立しています。プリン二個の確保に対して曜日別、時間帯別の在庫傾向を分析している。計画の過剰性それ自体が笑点です」
向かいに座っていた藤村教授が首を振った。
「成立していません」
「なぜです」
「朝に在庫を確認している」
藤村はスクリーンを指した。
「この人物は同日午前八時十二分に二個のプリンを確認している。それなら、その時点で買えばいい」
「それは整合性の問題でしょう」
「漫才における整合性を軽視する発言ですか」
会議室がざわついた。
「軽視していません。笑いの発生源とは別問題だと言っているんです」
「論理的欠陥を放置したボケを国際裁定に投入しろと?」
「そこまでは言っていない!」
「あなた方ボケ起源派はいつもそうだ。ツッコミを事後処理機関か何かだと思っている」
「実際、機能の一部は事後処理でしょう」
「笑いを発生させているんですよ!」
「笑いはもう発生している!」
「静粛に」
委員長が机を叩いた。
「ここはプリンの購入時刻を議論する場ではありません」
書記官が手を挙げた。
「本日の第三議題は『プリン購入時刻に関する再分析』です」
委員長は資料を確認した。
「失礼しました。続けてください」
藤村教授が立ち上がった。
「そもそも私は、ここで必要なのは単純な論理指摘ではないと考えています」
「というと?」
「『朝買えよ』では正しいだけです。正しいが弱い」
数人がうなずいた。
「ツッコミには論理的正確性と同時に、適切な概念距離が必要です。これは概念転写説が繰り返し指摘している」
山岡教授が露骨に嫌な顔をした。
「また比喩距離ですか」
「重要です」
「最近のあなた方は、ツッコミを難しくすればするほど高得点になると思っている」
「そんなことは言っていない」
「昨年度の国家代表候補を忘れたんですか。審査員がツッコミの意味を理解するまで平均一・八秒かかった」
「だから最小理解遅延説との統合モデルを――」
「一・八秒ですよ。もう次のボケが始まっていた!」
「旧モデルの話を現在の理論に持ち込まないでいただきたい!」
会議はその後、三時間続いた。
プリンは買われなかった。
こうした研究には、毎年莫大な予算が投入された。
全国十三大学に漫才科学部が設置された。
国家代表候補となる生成AIには、一日に平均四十七万本の漫才を生成させた。
それを評価する専門職も生まれた。
一級漫才評価士は国家資格だった。
資格取得には最低五千時間の評価実務が必要とされた。
笑う必要はなかった。
研究院地下三階には、長期評価者専用室があった。
真鍋がそこを訪れたとき、評価士の一人がモニターを見ていた。
「面白いですか」
真鍋が尋ねた。
「九十三点です」
「笑いましたか」
評価士は少し考えた。
「質問の意味がよく分かりません」
真鍋は記録用紙に「異常なし」と記入した。
そして今年、国家漫才研究院は新型生成モデル《KAGURA-12》を完成させた。
二十七年間に蓄積された漫才一億八千万本。
人間による評価データ四百二十億件。
笑声量、笑い開始時間、持続時間、呼吸変化、表情筋活動。
さらに主要十四学派の理論モデルが統合された。
試験運用で生成された漫才の予測得点は、平均九十七・四点。
最高記録は九十九・八二点だった。
研究院始まって以来の数字だった。
ところが問題が起きた。
誰も笑わなかった。
九十九・八二点の漫才を見た百人の評価者のうち、笑った者は三人。
その三人のうち一人は咳だった。
それでも専門評価では九十九・八二点だった。
異常論理整合性、九十九・九。
ツッコミ捕捉率、百。
設定深度、九十八・七。
比喩距離、最適範囲。
理解遅延、〇・四二秒。
すべてが理想的だった。
そして、つまらなかった。
緊急会議が招集された。
ボケ起源派はツッコミ側の過適合を主張した。
ツッコミ完成派はボケ側の逸脱不足を主張した。
相互作用派は双方の議論が二元論的すぎると主張した。
可解逸脱派は予測可能性の基準値変更を要求した。
異常前提保存派は今回の問題とは直接関係がなかったが、呼ばれていたので意見を述べた。
結論は出なかった。
三日目、真鍋が言った。
「もうAIに聞きませんか」
誰も反対しなかった。
世界最高性能の汎用研究AI《ORACLE》に、過去三十二年間の全漫才裁定記録、主要国の研究論文、評価データ、審査員データ、生体反応データが入力された。
各国政府から代表者が集まった。
ボケ起源派、ツッコミ完成派、相互作用派。
十四の主要学派から、それぞれ第一人者が招かれた。
質問文だけで三週間揉めた。
最終的に国際漫才学会と国際紛争裁定委員会が共同で承認した文章は、百八十七語になった。
真鍋が読み上げた。
「以上の条件を満たし、文化的・言語的偏差を可能な限り排除した上で、国家間紛争の裁定に使用可能な、客観性、再現性、公平性を備えた漫才評価方法を提示してください」
送信した。
ORACLEが計算を開始した。
世界中の研究者が画面を見つめた。
三十二年間。
数兆円。
数億本の漫才。
四百二十億件の評価。
十四の主要学派。
三十七の準主要学派。
そして、人類最高性能の人工知能。
十二秒後、回答が表示された。
「無作為に千人集めて、笑った回数の合計で決めればよいのではないでしょうか」
