「哲学的」という言葉をたまに聞く。
人生について考えたり、「幸福とは何か」「人間とは何か」といった話をしたりすると、哲学的な話だと言われることがある。
私もこの言葉を普通に使っていた。
でも、あるとき疑問に思った。
そもそも哲学って何なのだろうか。
哲学って何をするものなのか
哲学と聞いて最初に思い浮かぶのは、人生や幸福、善悪、存在といった、なんとなく難しそうなことについて考える学問だった。
ただ、それでは範囲がよく分からない。
「今日の夕飯は何にするか」を真剣に考えても、普通は哲学とは呼ばない。
では、考える対象によって哲学かどうかが決まるのだろうか。
幸福について考えれば哲学で、夕飯について考えれば哲学ではない。
そういう分類なのだろうか。
調べたり考えたりしていると、哲学は特定の対象を研究するというより、普段は前提として扱っているものまで疑って考えることに特徴があるように思えてきた。
たとえば、
「幸せになりたい」
という言葉がある。
普通なら、
「どうすれば幸せになれるのか」
を考える。
しかし、もう一段戻ると、
「そもそも幸せとは何なのか」
という疑問が出てくる。
さらに、
「人は幸せになる必要があるのか」
「誰にとっても共通する幸せはあるのか」
とも考えられる。
こうなると、最初は当たり前に使っていた「幸せ」という言葉そのものが、だんだん怪しくなってくる。
私はこういうことをよくやっている気がする。
答えより、分岐点を探しているのかもしれない
以前、議論について考えていたときにも似たことがあった。
二人の意見が対立しているとして、互いに理由を確認していく。
すると、
AだからBだと思う。
しかし相手は、
AだからCだと思う。
というところまで来ることがある。
ここで事実認識が違うなら、データなどによってどちらかが間違っていると分かることもある。
しかし、同じ事実を認識しているのに結論が違う場合もある。
さらに理由をたどっていくと、
「個人の自由をどこまで重視するか」
「本人の利益のためなら、他人が介入してもよいと思うか」
「公平さと自由が衝突したとき、どちらを優先するか」
といったところに行き着く。
ここまで来ると、単純に事実を確認するだけでは決着しない。
二人が違う結論になった原因が、もっと根本にある価値観の違いだからだ。
私は以前、これを価値観の分岐点のようなものとして考えた。
もしかすると哲学でやっていることの一つは、こういう分岐点を探すことなのではないだろうか。
結論だけを比べるのではなく、
なぜその結論になったのかを遡っていく。
すると、自分でも意識していなかった前提が出てくる。
では、哲学には正解がないのか
ここで別の疑問が出てくる。
価値観の違いまで遡ったら、それ以上は、
「私はこう思う」
「私はそう思わない」
で終わるのだろうか。
そうだとすると、哲学には正解がないことになる。
これは、ある意味ではそうなのかもしれない。
幸福な人生とは何か。
自由と安全のどちらを優先するべきか。
長く生きることと、若いうちの自由な時間のどちらを重視するか。
こうした問題に、誰にでも適用できる唯一の答えがあるとは私は思わない。
しかし、だからといって何を言っても同じということにはならないだろう。
主張の中で話が矛盾していたり、その前提となっている事実が間違っていたりすることはある。
「私はこう思う」と言えば、どんな主張でも検討する必要がなくなるわけではない。
個人で何を考えるかは自由だと思う。
ただ、それを他人に対して「こう考えるべきだ」と主張するなら、少なくとも自分の前提と結論がどうつながっているのかは説明できた方がいい。
哲学に唯一の正解がないことと、論理や事実までどうでもよくなることは、別の話なのだと思う。
自分の前提に気づく
哲学について考えていて、私が一番面白いと思ったのはここだった。
何かについて考えていると、
「なぜ私はそう思うのか」
という疑問が出てくる。
理由を考える。
その理由について、
「では、なぜそれを重視するのか」
とまた考える。
それを繰り返していくと、自分が普段は疑っていなかった前提にぶつかることがある。
たとえば、
「老後に備えて若いうちから資産を作るべきだ」
と考える。
なぜか。
老後に困らないため。
なぜ老後に困らないようにする必要があるのか。
できるだけ長く安全に生きるため。
では、
できるだけ長く生きることは、当然に優先するべきなのか。
ここまで来ると、資産形成の話だったはずなのに人生観の話になっている。
別に「長く生きる必要はない」が正解だと言いたいわけではない。
面白いのは、最初の主張の奥に、
「長く生きられるように人生を設計することには価値がある」
という、普段あまり意識していない前提が存在していたことだ。
そして、その前提を採用するかどうかによって、その後の人生設計も変わってくる。
こういう前提を見つけることには意味があると思う。
自分が何を大切にしているのかが分かるからだ。
考えても答えが出ない
一方で、哲学について考えると困ることもある。
考えれば考えるほど、答えが出なくなる。
幸福とは何か。
自由意志はあるのか。
人間は自分で物事を決めているのか。
何をもって「自分」と呼ぶのか。
生きることに意味は必要なのか。
最初は単純な疑問だったはずなのに、一つ答えようとすると、その答えの中に別の疑問が出てくる。
そして、その疑問を考えると、また別の疑問が出てくる。
終わらない。
昔は、哲学というのはこうした難しい問題について答えを出すものなのだと思っていた。
今は少し違って見える。
答えを出すことも当然あるのだろう。
しかし、
自分が何を前提にしているのか。
意見が違うなら、どこから違っているのか。
当然だと思っていることは、本当に当然なのか。
そういうものを一つずつ掘っていくこと自体にも意味があるのではないかと思う。
その結果、
「よく分からない」
にたどり着くこともある。
でも、考える前の「よく分からない」と、いろいろ考えた末の「よく分からない」は、同じではない。
少なくとも、
何が分からないのかは、前より分かっている。
今のところ、私にとって哲学というものは、そんなものなのかもしれない。
